萩往還トレッキングB 2016.6.03

佐々並 〜 天花橋

はぎおうかん 山口県萩市・山口市



歴史の道 萩 往 還

萩往還は、慶長9年(1604)の萩城築城後、城下町萩(萩市)と瀬戸内海の港 三田尻(防府市)をほぼ直線で結ぶ街道として開かれました。全長53kmです。 この道は、殿様の「お成り道」(参勤交代道)として整備されましたが、山陰と 山陽を結ぶ陰陽連絡道として、江戸時代の民衆の重要な交通路となりました。 また、幕末には、維新の志士たちが往来し、歴史の上で重要な役割を果たしました。

往還には、宿駅や一里塚、往還松などの交通施設が設けられ、また殿様一行の交通に 伴う各種の施設も造られました。「茶屋」は、殿様の休泊用の施設で、山口・三田尻 は宿泊用として、佐々並市は休憩用として設置されました。 「建場」・「駕籠建場」は、殿様の休憩施設で、悴坂(かせがさか)・釿切(ちょうなぎ)・日南瀬(ひなたせ)・一ノ坂・柊(ひいらぎ)・鯖山(さばやま)峠の見晴らしの良い場所に設けられました。また、殿様の一行の施設に対し、庶民の施設である「茶屋」は、悴坂・六軒茶屋・鯖山峠などにあり、旅人の疲れを癒しました。

萩往還の行程をを簡単に紹介します。起点である萩城下の中心唐樋の札場を出た道は、 橋本川に架かる大橋を渡り、大屋の集落、悴坂一里塚跡、大屋刑場跡、悴坂駕籠建場跡 などの遺跡があります。明木市から佐々並市までは、一升谷・釿切の山道が続きますが 、ここには、石畳が4ヶ所に残っています。 佐々並市から山口の間には、往還最大の難所の一ノ坂があります。萩往還の最高位にある 板堂峠は防長2か国の国境で、この一帯には江戸時代初期に銀山が営まれていました。峠を下ると 萩往還の中間地点である一ノ坂一里塚や一ノ坂建場跡(六軒茶屋) 山口から鯖山峠を経て宮市に向かい三田尻に至ります。防府天満宮の門前町である宮市は、 古くから商業で栄えた町で、ここに本陣を勤めた兄部家の建物が残っています。三田尻には 御茶屋跡、御船倉跡、住吉神社石造灯台跡があります。御船倉は、毛利藩の水軍(御船手組) の本拠地で、殿様の参勤交代の際にはここから御座船が出航しました。(田町アケード内にある解説より)

歩行距離 14.0km
所要時間 4時間35分
累積標高差 (+) 566m  (-) 749m
コース 佐々並バス停:09:25 → 大迫口バス停10:15 → 休憩所10:35 →  上長瀬一里塚11:00
 → 21世紀の森キャンプ場11:35 → 板道峠12:10 →  六軒茶屋跡12:40 →
萩往還天花口13:05 → 天花橋13:55 →  瑠璃光寺駐車場14:00

2日前の6月1日引く続く3日目の萩往還トレッキング。今日は佐々並から山口まで長丁場を歩く。途中に板堂峠があり萩往還のなかで、最大の高低差のある場所である。

我車で萩を出発、山口・瑠璃光寺前の駐車場に到着し車を停める。駐車場の車は少ないのでしばらく停めさせてもらうことにする。山口県庁前の駐車場まで歩き、萩行きのJRバスはぎ号に乗車し佐々並バス停まで移動する。佐々並バス停でバスを降り国道沿いに歩き出す。道の駅「あさひ」前を通過し左に折れ佐々並橋を渡り街の中に入る。佐々並の街には、昔60軒ほどの民家が建ち並んでいたという。萩往還の中の主要な宿場町として維持され、藩主やその家臣達が泊まる建物などがあった。一帯は伝統的建物群保存地区となっている。

街道筋であった広い通りには、維新の志士たちが宿泊したという林屋(旅館・現在は食堂)、雑貨屋の椿屋、そのすぐ先には休憩所ある。先に進むと角に石碑のある場所に萩往還ふれあい塾がある。昔は上級藩士などが宿泊する「御客屋」があった場所である。その角を左に折れ先に進むと佐々木屋(鍛冶屋)、三浦酒造、藩主の宿泊・休息の施設であった「御茶屋」跡がある。そこには「佐々並の戦い」に関する説明板がある。1864年の幕府方による第一次長州征伐に端を発する、長州藩内の幕府に恭順するという俗論派と、それに反対する正義派が戦った内戦(元治の内乱)の舞台の一つとなった。藩政府軍の一部と諸隊のひとつで井上馨を総督とする鴻城隊の戦いにより、市集落上ノ町の一帯が戦禍を蒙ったという。戦いは鴻城隊が勝利した。

指導標に従い右に折れ上りの道を歩く。佐々並の一里塚、貴布祢神社を通り過ぎ、宮ノ峠の碑のある国道262号線に出る。ここからしばらく国道沿いを歩いていく。中作バス停のすぐ手前に吉田松陰東送通過の地の石碑がある。そこの分岐を右に折れて国道を外れる。 廃屋のある未舗装の広い道を進み日南瀬(ひなたせ)と呼ばれるところの広場まで来る。 休憩所の裏手には伝説の首切れ地蔵がある。更に休憩所のすぐ先には復元された日南瀬の石風呂がある。説明によると今のように湯の風呂に入るようになったのは江戸中期以降だという。岩風呂の中で火をたき、底に石を焼いて、その上に海岸から運んだ海藻を敷いてその上に着物着たまま休んでいたという。神経痛やリュウマチによく効くらしい。岩風呂で現存するものは、日南瀬バス停近くの山中に残っている。

幅の広い未舗装ののどかな道を進み、県道62号線に出る。車で萩から山口まで行くときいつも通る近道である。ゆるやかにカーブする県道の歩道を田んぼ沿いに歩いていく。沿道には沢山の花が咲く。上長瀬の一里塚と逆修石(ぎゃくしいし)を通り過ぎると前方右手にショウゲン山を見ながら歩く。緩やかな上りの歩道を延々と歩いていき21世紀の森夏木原キャンプ場前に到着する。道沿いの小さな公園のベンチに座り手製弁当を食べる。キャンプ場に泊まっていると思われる大勢の若者たちがこちらに向かって下ってくる。公園の中には、岸信介の書による吉田松陰が江戸に送られるときこの地で読んだ七言絶句の石碑がある。

再び県道62号線をしばらく上り、指導標に従い左に折れ幅の広いジグザグの山道を登っていく長門と周防の県境の碑がある。そこから階段を下っていくと駐車場に出る。県道を横切り真向かいの東鳳翩山の登山口に入る。



山口・瑠璃光寺前の駐車場に車を停めさせてもらう。

JRバスはぎ号で佐々並バス停まで移動する。

萩往還続きの佐々並市まで戻る。

道の駅あさひ


林屋・旅館を営み幕末には、維新の志士たちが宿泊したという。

佐々並川を横切る。

道の駅あさひ

椿屋・雑貨店
国選定重要伝統的建造物群保存地区
萩市佐々並市伝統的建造物群保存地区

佐々並の集落は、萩市街から南東へ約15キロメートル離れ、中国山地の山間を流れる佐々並川の南北両岸に広がる。慶長九年(一六〇四)、萩へ入府した毛利輝元は、萩藩内の主要街道として、萩と瀬戸内海側の三田尻を結ぶ萩往還(約53km)を整備した。佐々並市はこの時設置された宿の一つで、慶長年間に藩主が休泊する「御茶屋」を起点に「市(いち)」から「久年(くどし)」にかけて六十数軒の民家が立ち並ぶ街並みが成立していたとみられる。
江戸時代の佐々並市は、往還沿いに茅葺の民家が建ち並び、周辺には田畑が広がっていた。町並みには「御茶屋」とともに、上級藩士などが宿泊する「御客屋」や人馬継立をおこなう目代所(もくだいしょ)があり、江戸時代を通じて、萩藩の宿場町として維持された。
保存地区内には、幕末から近代にかけての茅葺や赤い石州瓦で葺かれた主屋が残り、萩往還にそってまとまりのある町並みへ下る往還沿いには棚田の石垣が多く残り、山から集落に引かれた水路とともに、山間に立地する集落の独特な景観を形成している。(現地解説)

休憩所

休憩所に入る。

萩往還ふれあい塾
家老、役人、他国使者の宿泊所であった「御客屋跡」。

萩往還ふれあい塾で左に折れる

佐々木家・鍛冶屋

三浦酒造

三浦酒造の倉庫

御茶屋跡・藩主の宿泊、休息のための施設。
佐々並の戦い
元治元年(1864)の第一次長州征伐に端を発する、藩内の恭順派(反政府側)と主戦派(奇兵隊他諸隊側)による内戦に関連し、佐々並市においても元治2年(1865)に戦いがあり、市集落上ノ町の現在地一帯が戦禍を蒙った。
1月12日、山口小郡の主戦派有志により、井上聞多を総督とする鴻城軍が組織され、1月15日夜半から16日にかけて、御茶屋に布陣していた反政府軍を襲撃した。藩政府軍は萩からの来援を求めつつ抵抗を続けたが、鴻城群の攻撃を支えられず、夕刻遂に佐々並市を捨てて、明木へ後退した。この戦いで、藩政府軍側が3人、鴻城軍側が2人それぞれ死亡した。また鴻城軍側が放った火により、上ノ町の民家12軒が焼失した。
その後、主戦派側は佐々並市に南園隊と御盾隊を配備し、恭順派と対峙を続けたため、21日、支藩清末藩主の毛利元純が佐々並におもむき、諸隊に山口までの撤退を求めたが聞き入れなかった。このため、2月4日、藩主の世子毛利元徳が明木まで出張し、藩士柏村数馬を佐々並に派遣し諸隊幹部を、ついで萩に帰って藩政府幹部をそれぞれ説得したため、諸隊側は山口に引き上げ、藩政府軍は解散した。(現地解説)

佐々並市頭一里塚

貴布祢神社

宮ノ峠の碑・国道262号線と合流する。
佐々並市頭(いちがしら)一里塚
萩往還には、萩唐樋札場から三田尻船場までの間に11基の一里塚が設置されていた。一里塚は、石で畔を造り、土を盛って塚木を立てたので、その形から一里山とも呼び、塚は木五寸角・長さ一間の統一規格のものだった。この市頭一里塚は、萩唐樋札場から4番目、三田尻から8番目に設置し、塚木には「従三田尻船場八里、従萩唐樋札場四里」と記されていた。萩〜三田尻間の街道は中世から存在していたが、慶長9年(1604)の毛利氏江戸入府に伴い、参勤交替に使用されたことで「御成道」と称され萩藩内の最重要路に位置付けられた。また藩内の物流の大動脈として機能し、往還沿線には一里塚の外、藩主の往来に応じるための御茶屋や人馬送りの差配を行う目代所、宿屋、茶屋等が建ち並んでいた。
萩往還の一里塚は萩唐樋札場を基点して椿西分悴坂、明木村堂尾、釿切中の峠下、佐々並村市頭、同村上長瀬、山口宰判上宇野令一の坂六軒茶屋上、同天花村木町の上、御堀村氷上山門前、小鯖村鳴滝、同村鯖山峠の下、三田尻宰判下右田村大渡にそれぞれ設置されていた。(現地解説)

国道262号線沿いを歩く。車に注意!。

板橋口バス停を通過する。

大迫口バス停を通過する。

しばらく国道を外れる。

すぐに国道に出て日南瀬(ひなたせ)峠を越える。

吉田松陰先生東送通過の地の石碑がある。

中作バス停のすぐ手前で国道を外れる。

休憩所で一休みする。

休憩所の裏にある首切れ地蔵

休憩所の側にある日南瀬の石風呂(復元)


県道62号線に出る。
日南瀬の首切れ地蔵
萩にお城ができて五十年ばかりたった頃、山口宮野村の渡辺という武士が、萩の法華寺において、囲碁の争いから相手方に討たれた。渡辺のの下僕の源助は、このことを聞いてひどく悲しみ、せめて主人のお墓の掃除をしたりお花や線香を供えようと、萩で商売を始め、くる日もくる日も墓参りを欠かさなかった。商売もだんだん繁盛するようになったので、源助はある日宮野村へ帰ることにした。萩を朝暗いうちに立ち、佐々並で昼食をとり、ここで休んでいると、夢ともなく現ともなく、「汝が休みたる下に我が形あり。掘出して道の側に建て直しなば、汝が願いも成就し、なお、往来の人、家名を唱え、信心なる輩には、その縁によって済度(さいど)せん。我は即ち地蔵菩薩なり。」とお告げがあった。驚いた源助は、大急ぎで村人を呼んで近くを探し、沼の中に埋もれていた地蔵尊の頭を掘出し、僧を招いて供養した。その後、幼主も成長しめでたく仇を討ったのであるが、これはひとえに地蔵尊のおかげであるとお参りをする人も増え、祈願も増してきたそうである。この地蔵は、はじめから首がはなれていたので、首切れ地蔵と呼んでいる。(言い伝え)(現地解説)

県道62号線沿いを歩く・沢山の花が咲く。


上長瀬(かみながせ)一里塚<


県道62号線沿いを歩く・前方にショウゲン山が見えてくる。/td>

逆修石(ぎゃくしいし)
上長瀬(かみながせ)一里塚
一里塚は、徳川幕府開設直後の慶長九年(1604)に江戸の日本橋を基点として、全国の主要街道にその築造を命じたのに始まるといわれる。防長両国では、同年毛利輝元の萩築城により、城下、唐樋札場(萩東田町)を基点として、主要道に一里(約4キロメートル)おきに設けられた。萩往還には十二基が設けられ、上長瀬一里塚は、萩唐樋の札場から五里の地点に当たる。一里塚は路傍の緩斜面に不整形な大小の岩石を集積して墳形をつくり、かつては半球形に近い整った形であったと思われる。旧記によると「従三田尻船場七里、従唐樋札場五里」と書いた塚木を立てていたが、元治岩塩(1864)、防長両国の一里塚を廃して常緑樹に改めた。そのため土台の部分も手入れの必要がなくなり多くは崩壊してしまったが、萩市悴(かせが)坂と上長瀬のものはほぼ原型をとどめており、数少ない近世の交通関係遺跡として貴重である。(現地解説)

逆修石(ぎゃくしいし)の由来
毛利氏が慶長五年(1600防長二州へ国替えの頃、一の坂銀山は大いに栄えていた。この一の坂銀山を管理した人は豫州(現在の愛媛県)の人で宇田川備後守といった
宇田川備後守については次の伝説が残っている。
1.一の坂金山が終わった時この岩の川向いの二間右でニ夜三日の施しをし、米、大豆、銭、小玉銀等を往来の人に与えた。
2.備後守は数百日の間人力を費やして一の坂銀山・金山を掘ったがその功なく、あきらめて防府まで逃れ去り宿の泊まっ。たその夜の夢に太陽が懐に入る夢をみたので急いで一の坂に帰り、もとの如く掘ったところたちまち多くの銀を掘り出したという。

古記によると慶長の初めころより元和五年(1619〜20)頃までこの銀山は盛んであり寛永十一年(1634)宇田川備後守がこの逆修石を立て施行した頃が終わりであったという。

次の文字が石にきざまれている。
寛永十一年
宇田川備後守松誉宗鎮立
南無阿弥陀仏
光誉妙喜冥福
十月五日大導日
(現地解説)

21世紀の森夏木原キャンプ場前に到着・一休みしておにぎりを食べる。


小さい公園の中に吉田松陰の碑がある。


吉田松陰先生と夏木原
江戸幕府により東送を命ぜられた先生は、安政六年(1859)五月二十五日、萩から江戸への途中一行と共に、萩往還に沿うこの地でで、しばしの休息をとられた。そのときの感懐を、先生はこの漢詩(七言絶句)に託されたんであった。その意は、「私は幕府の命令で江戸に送られるが、自分の真意は天の神に正したからわかるはずである。自分は公明正大である。ここ夏木原では、五月雨がしとしと降り、ほととぎすがしきりとに鳴いている。ほととぎすは血を吐くまで鳴くというが、その血で、このあたりのさつきつつじも真紅に燃えている。自分の胸中もまた同じ思いがする。」と。わが国の現状を憂い、行く末を案ずる先生の心情がよくあらわされている。
先生時に満二十八歳。(現地解説)

縛吾台命到關東
對薄心期昊穹
夏木原頭天雨黒
満山杜宇血痕紅



引き続き県道62号線を上り左に折れる。

ジグザグの急坂を上る。

国境の碑がある。「南 周防国 吉敷郡 北 長門国 阿武郡
文化五年戊辰十一月建立」と彫ってある。

下るとすぐに国道横切り目の前の東鳳翩山の登山道に入る。

少して東鳳翩山の登山道を左に折れ板堂峠を通過する。

再び県道に出る。


目の前にある階段を上っていく。

杉の森の石畳の中を歩く。


キンチジミの清水

一貫石
板堂峠からキンチヂミミの清水
萩往還の中で最も高い標高540mの地点を板堂峠と言います。中世、大内氏が栄えた頃に大内政弘が板葺きのお堂を建てことに由来しています。
板堂峠から山口方面に向かって少し下った谷の先には、江戸時代の初頭(1600年代初め)のころ開発され、寛永年間(1624−1643年)ごろまで稼働していた「一ノ坂銀山」がありました。この銀山の山奉行は「天野又右衛門」という名で、産出した銀には「天又」のこ極印が押されました。そのため一の坂銀山から産室した銀は通称「天又銀」と呼ばれています。さらに、山口方面に下っていくと、「キンチジミの清水」に着きます。岩盤から水が湧き出て非常に冷たいので、飲んだら縮み上がるというので、キンチジミといったと言われています。この冷たい水を利用して、大正時代の初年頃(1910年ころ)まで、醤油味と砂糖味の「ところてん」を販売していたそうです。(現地解説)

一貫石(いっかんいし)
「キンチヂミミの清水」と「一ノ坂一里塚」の間の山手側に3つの大きな岩があります。これおを「一貫石」と呼んでいます。この岩が「一貫石」と呼ばれるようになった理由として、次のような昔話が伝わっています。

昔、お伊勢参りの旅人が疲れたといってここで休んでいたときに、一貫文を入れた財布を置き忘れてしまいました。途中まで降りて、忘れてしまったことを思い出したのですが、戻るのがおっくうになってしまったのか、引き返しませんでした。そして、お伊勢参りの帰りに寄ったら、そこに一貫文のお金がそのままの状態で置いてあったということです。・・・

一の坂御建場跡(六軒茶屋跡)
「お成り道」(参勤交代や領内巡視用の道)として整備された萩往還は、一里ごとに一里塚が設けられ、各所に往還松が植えられていました。また、藩主一行の通行に伴う各種の施設もつくられました。このうち「駕籠建場」は、見晴らしの良い場所で駕籠を降ろし、殿様一行が短時間休む場所として設けられました。
往還の中間地点でかつ最大の難所であったここ六軒茶屋には「一の坂御建場」が置かれました。・・・六軒茶屋という地名はすでに江戸時代中頃にはでてきますが、宮のの八丁峠を越えて萩に通じる新しい道ができたのちも、ここ六軒茶屋では民家の軒先を茶店にし、往来する旅人のよい休み場所になっていました。


一の坂の一里塚(復元)
北方 従萩唐樋札場 六里
南方 従三田尻船場 六里 と記されていた。
ちょうどこの地が萩往還(萩〜三田尻)の、中間地点になる。


一の坂御建場跡(六軒茶屋跡)

一の坂御建場跡(六軒茶屋跡)

一の坂御建場跡(六軒茶屋跡)

また県道を横切る。


森を抜ける。

四十二の曲がりの急坂を下る。

萩往還天花坂口まで下りる。


またまた県道62号線に出合う。

子安観音堂(天花子安堂)


子安観音堂の観音像

一の坂ダムから山口市街地を見る。

一の坂ダム

一の坂ダムから錦鶏湖を見る。


天花橋を渡る。

今日のゴールはもうすぐだ。あ〜つかれた。


県道62号線を右に折れ瑠璃光寺方向に向かう。

無事、瑠璃光寺前の駐車場に到着する。




■ HOMEへ戻る

総合登山記録  山口県の山  中国百名山 九州百名山  四国百名山  日本百名山   関東の山 南アルプス 屋久島縦走    
航海記録  旅の記録  海の風景・ギャラリー  沖縄  山で見た花


Copyright(c)2014 軽きゃんぱー里山放浪記. all right reserved.